とりとひと
目の前に大きなドザがいる。
彼はちいさな子ドザたちを統制しているようだ。
前方に並んでいる子ドザ達の色は黄色い。
大きなドザの色だけが茶色っぽい。
左手には棒のようなものを持っていて、頭には青い屋根のようなものをつけている。
胴には青く丸まった板を巻いている。
それに対し子ドザ達は何も身につけていない。
二列になって前によちよち歩いているだけだ。
何をしているのだろうか。
何の意味があるのだろうか。
分からない。
決して分からない。
子ドザ達はなにやら音を発しているが、われわれの話すそれとは違う。
大きなドザもときどき大きな音を出している。
このドザ達は僕に何をしてくるのだろうか。
分からない。
決して分からない。
怖い。
ただただ、怖い。
これが、鳥から見た我々人間である。
これが、鳥から見た我々人間の営みである。
我々は他の生物を見るとき、我々が作った言葉でその生物の名前を決める。
鳥たち自身も、自分たちは「鳥」などと呼ばれていることを知らないように、人は鳥から「ドザ」などと呼ばれていることを知らない。知る由もない。
だから、あなたは初め「ドザ」と聞いたとき、「あぁ、この鳥のような生物のことをドザと言うのか」と理解しただろう。
しかし「ドザ」とは鳥からみた人間の名称のことである。
このように、同種と異種では物の捉え方が異なる。
だから、あなたが「消しゴム」と言っても鳥からしたら何のことか分からないのである。
そんなことは当たり前のことではないか。あなたは今そう思っただろう。
そうだ。だが私が言いたいのは、このことは同種同士でもいえるということだ。
あなたが見ているものと、あなたの友人が見ているものの間には、
このとりとひとの例まではいかないが、必ずしも乖離が生じている。
その乖離を無視や軽視、あるいは認知していないようなことがあると、もともと友人とあなたの間にある意識上の乖離が、実際の乖離となって現れてしまうのである。
だから、あなたが他人と揉め事を起こすようなことがあったら、このカード1枚を頭に浮かべて、「あ。僕の見ているものとあの人が見ているものって違うんだったな」と思い返してもらえれば、作者のこっぺとしてはそれで満足です。
趣深いなぁ!と思ってくれた方、
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